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寒天作業が終了します2019.02.03 Sunday
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70日間に及んだ茅野市での暮らしが終わろうとしています。1階の右の方がテングサを洗って水槽に漬ける仕事場、左奥は釜の建屋になり煙が出ていますね。2階は居住区で、今期は4畳半にほぼ1人で寝起きしました。
11月26日から結局1日の休みもありませんでしたね。去年は釜に不具合があり全体のラインがストップし、1日だけ休日があって霧ヶ峰方面へドライブに出かけたんですが。今年も釜の故障はありましたが、夜中のうちに解決して何とか途切れずに続きました。
平成も終わろうとしていますが、こんな昭和な工場が続いているんですね。あと3日ですが、朝はとても冷えていて、歩くところはツルツルです。ここにきて怪我をしないようにしたいものですし、また岩手への帰りの運転も、疲労も溜まっていることだし注意したいですね 。
こういう風景は風物詩と言えるし、テレビや新聞の取材がひっきりなしに来ました。最近ではドローンで工房周囲を庭も含めて上空から映した放送があり(長野の6チャンネル)、とても美しく見応えある光景でした。
小学3年生も社会科の実習でやってきました。家が近所らしく、後にまた一人で来て、この前はありがとうございました、と丁寧な3年生でした。同じ年頃の虐待で亡くなったニュースには憂鬱にさせられました。子どもを育てることが大人の最大の務めと思います。
取材はしょっちゅう来るのだけれど、ただ、いかんせん県内発信媒体のみで、全国放送にはならないんですよね。長野県人には茅野の寒天は十分知れ渡っていると思うんですが。。全国放送するに値する光景と思うんですけどね。東北ではあまり寒天のことが日常話題に上ることはありません。昔はお盆とかに草を煮てトコロテンを作ったそうですが。
さて、家にいざ戻ると、早速たらの芽作業に着手します。着実に技術向上を図って高品質の生産を目指します。こちらでも取り組んでみたいという人もあり、たらの芽の話題に花が咲くのは楽しいものです。
季節労働だからこそ、他に季節的な本業を持つユニークな人が集まってきます。どうみてもサラリーマン的じゃないし、夢のある事業を思い描き、冬期の蓄えを得て、各地にまた戻っていきます。
私が最初の離脱者になります。豪雪地ですので、他の人たちよりいち早く農閑期が訪れ、11月最終週からスタートしました。そして冬の後半のたらの芽の生産へと繋いでいきます。
青森から多く来ていますが、だいたい3月の頭で帰省するみたいです。
家では長女も高校受験で正念場を迎えます。お金もかかってきますよね。。
時々思い出すセリフがあります。正確な記憶じゃないですが、昔の海援隊の歌。私もテツヤなので、小学生の当時はよくからかわれたものでした。
働いて、働きぬけ、休もうとか、遊ぼうなんて絶対思うな、その時は死ね。というような言葉でしたね。厳しい表現ですが本当にその通りですね。特に農業で生きていこうとするなら、休むとか遊ぶとか、考えてはダメでしょう。その気構えは、寒天作業につながります。みんな当たり前のように多い人で100日間無休で働いています。。家族の笑顔のためです。
では、次回は岩手から雪国の写真とともにご報告いたします。2月9日は西和賀の雪あかりです。
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1月も早や後半に2019.01.17 Thursday
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長野での暮らしも2/3を過ぎて、先が見えてきました。
毎日、ひたすらに寒天の作業です。釜から出たプルプルのところてんが青いケースに入って庭に運ばれます。切れ目が入っていて、何個でしたか、一度私もやったのですが、木枠の中に並べる「天出し」の光景です。
奥に見えるハウスは、庭で出来上がった寒天を最後に乾燥させるスペースになります。
まあ私の任務は草を洗うことなのですが。洗った草はこのようにカゴに入れられて、この先の釜の部屋へと送られていきます。
だいたい朝の最低気温は−5、6度です。テングサも凍るし水槽の間の歩く足場も凍ります。ローラーも凍って草を入れたカゴはスムーズに滑りません。
天出しされて3日くらい経ったところでしょうか。まだ重そうです。
さて、全く関係ない3連休の暦だったですが、14日には仕事終了後に一応お出かけをしてきました。尖石縄文考古館という茅野市の施設です。ここには国宝の土偶が2点所蔵されています。
9月1日に上野で縄文展を見て以来、土偶には関心を深めておりました。
縄文のビーナスと名づけられた土偶です(実物)。
こちらは仮面の女神だそうです(実物)。
建物の外にある「尖石」を見てきました。この名を取って尖石遺跡、尖石縄文館と呼ばれております。
信仰の対象にふさわしい形ですよね。
この後は茅野の隣の原村にある産直に出かけて味噌汁の具やお酒などを買い、去年何度か訪れた「望岳の湯」に一年ぶりに訪れて、部屋に戻りました。小正月ということで事業者さんが盛り合わせを用意してくれていて、ちょうどお酒も買ってきたところだったので、3が日以来の晩酌となりました。
あと3週間、勤務が終了する日は確かに待ち遠しいことではありますが、その後にバラ色の生活が待っているわけではありません。いろいろな面で厳しい農業の現実に戻るわけですね。
ただ帰路のドライブ、長野の観光という1日だけについては掛け値なしに楽しみですね。
明日の朝仕事も寒そうです。
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新年のスタートはテングサとともに2019.01.01 Tuesday
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長野県茅野市から、明けましておめでとうございます。11月26日から36日作業し、37日目の今日が折り返し後半戦のスタート日となりました。あと35日テングサ洗浄の仕事を勤め上げ、岩手に戻りたいと思います。
朝5時から始めていますが、ちょうど早朝の2時間半が終わる頃、八ヶ岳から初日の出が昇って来ました。
雪国西和賀ではまず見たことはありません。偶然晴れていた元旦があったとしても、部屋にいれば日の出の瞬間を目にすることは難しいですね。ここでは半分外での仕事でその最中だし、その瞬間を捉えることができました。
電柱のそばに見えるのは八ヶ岳の西岳だそうです。ちょうど林が邪魔をして、仕事場から全貌は見えないんですね。
初日の出は数分間おひさまの輪郭が肉眼で見えました。
どうか今年もおひさまの力で米やにんにくに恩恵がありますように。
寒天のお店の方が、諏訪大社に初詣後、このような飾りを作業場にかけて行きました。あまり見たことのない形です。
テングサ洗浄の施設すぐそばの庭で、正月から作業が続けられています。広げていた寒天の乗ったかいりょうを積んでいるようです。
今朝は−8度でした。洗ったテングサは瞬く間に凍りバスケットにくっついてしまい、とても作業性が悪いです。
しかも洗った草を水に浸ける水槽が立ち並ぶ場所での作業ですが、その水槽と水槽の間の歩くスペースが凍って、滑ります。
まあこれくらい冷える日が寒天の品質には良いわけですが。
農業からはまだまだほど遠い厳寒期です。ただ、いまのテングサ作業というのは、農業に近いものがあり、休みなく働き続けることができているのも、農作業の延長線にある何らかの親和性が感じられる仕事だからなんでしょう。
始まれば、終わる。
1日1日が淡々と過ぎ行きます。焦って手を早めたりしないことで、心の平安(アタラクシア)が肝要です。あ、いつの間にか今日も終わったな、という感じで時間が過ぎることですね。そうすれば、すぐに2月が来るでしょう。
むしろ戻ってからのたらの芽の仕事の方がいろいろ大変です。生鮮品だし、ちゃんと無事栽培ができて、それを無駄にすることなく売り切っていけるのか、いまの単純なテングサ洗浄の日々をむしろ懐かしく思い起こすかもしれませんね。
今年も災害や異常気象なく、そこそこに良い収穫が得られますよう願ってやみません。今年も宜しくお願いいたします。
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クリスマスもあまり関係なく2018.12.27 Thursday
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最初に寒天工場から庭へ出た寒天が、乾燥ハウスに入りました。ここでしばらく乾燥させれば完成です。
最初からハウスに入れておけば楽だろうと思いますが、やはり直接外気に当てて、凍ったり溶けたりを経て寒天になるんだそうですね。「す」という何か蔓を編んで作った台座の上に広げています。
これは広げている段階です。「かいりょう」という木の枠の上にすだれ、新聞紙、白い寒冷紗にようなネット、の上に乗っています。これを上に11段積んだり、また広げたりを繰り返して寒天になっていきます。
広げる時も、積む時も2人で向かい合って作業します。結構重いです。右下の側は地面に着いているので、こちら側に立って作業する人はカギと呼ばれる鉄の器具で1か所を引っ掛けて持ち上げます。反対側に立つ人は両手で持ち上げます。
「押し出し」という、煮上がった寒天の生汁を運搬車で庭まで運ぶ作業をしています。トロンとしたトコロテンを天切りといって特注の刃物で刻んだものが青いケースに入っていて、これを庭に運んで、みんなで「天出し」を、すなわち「かいりょう」の上に木枠を載せて、ゴム手でつかんで入れるという作業に移ります。枠を取れば上の方の写真のように並びます。
さて、去年来た時に、1日だけ休みがありまして、その時に諏訪にあるオルゴールの店で一番下の娘にオルゴールを買いました。が、何かで故障してしまって、そして今回このお店に持ち込んで修理してもらいました。娘は落としてはいないと言っておりましてが、お店の技術者によれば、やはり落下して壊れてしまったとのことでした。オルゴール装置自体の交換で650円で治りました。せっかく来たので、このオルゴールの上に乗せるという回転する飾りを購入し、ゴージャスになりました。飾りでサイズも大きくなって、落としにくくなったとも思います。
もう落とさないでねと言われて店を出ました。
テレビで「ボヘミアンラプソディー」について取り上げられていた番組を見まして、昔懐かしいクイーンの音楽に浸りたくなって岡谷市にあるスカラ座へ行って来ました。
長野県の道路は結構混むんですよね。岩手よりも人口が多いというか密集もしているんでしょう。茅野から30分以上かかりました。
クイーンはやはり音楽が素晴らしいし、メンバーもそれぞれ魅力的です。静かにピアノとともに始まって、強烈なフォルテシモに至る。ドラマティックです。美しい旋律が次々と繰り広げられますよね。ブライアンのギターも最高ですよね。
中学から高校にかけて、期間としては3年間くらいでしたか。友人とカセットとかでやり取りしたり。
ボヘミアン・ラプソディーも何度も聞きました。なぜガリレオやフィガロなのかわかりませんでしたが、全然6分間という長さを感じさせません。ラプソディー(狂詩曲)とは、いろんな曲想が寄せ集められた楽曲のことで、滑稽な部分とかも含まれるのは、リストのハンガリー狂詩曲でも同じですね。ラプソディーインブルーも「ファンタジア」を通して子どもたちにも馴染みとなっています。これもいろんな楽想の寄せ集めですね。
Nothing is real matterとか言ってたと思いますが、matterは質料、物質で、それらは無であると。色即是空のような、形あると見えるものは実は空であると言っているのか、などと当時考えたものでした。いやto meと付け足しているので、主観的な観念論のようなことか、とか。
曲の最後にタムタムにような音が静かに響きます。これは当時からタムタムだろうと思っていましたが、いやそこまではやらないだろう、ドラムスのシンバルでそれっぽく響かせているのだろうとも疑っていました。が、映画を観て、ロジャーがタムタムを叩いていました。さすがです。ここはタムタムでなければならぬ、とちゃんと用意したんですね。
おそらく、この曲で私はタムタムが好きになりました。その後高校2年の後半くらいからクラシックしか聴かなくなりました。
マーラーの曲にはタムタムが多用されますが、深く重い世界観を描写する楽器として聴き入ってしまう楽器です。
明日も、明後日も正月も、朝5時から始め午後4時前まで、テングサの作業は続きます。
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冬の別なる暮らし経過中です2018.12.16 Sunday
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長野県茅野市で寒天作りに従事しています。スマホ持参のため注文を受けることもでき、今回は中学生の娘が米等の出荷に携わってくれています。
単身赴任にはもちろんマイナス面も大きいのですが、昨今、冬だけの短期の仕事を探すことは大変困難であり、また2月初めからは、たらの芽作業も入ってくることから、70日間といった条件に応じてもらえていることは大変ありがたいことです。
農作業シーズン中はもっぱら一人で田畑に閉じこもってという環境でもありますから、別の環境で脳に刺激を与えることはプラスの効果もあることでしょう。土地が変わり、仕事場のメンバーも新鮮であります。この地でいろいろ得て戻りたいものと思っています。
こちらでの仕事は寒天作りではあるのですが、私自身は、テングサを洗浄するという特殊な業務になり、テングサを煮る釜の仕事とも、茹で上がった煮汁のところてん状態を外に並べ角寒天を仕上げていく庭の作業とも異なって、水舎といわれる一人のみの役割になります。一人という点では夏場と同じなんですが。。
乾燥した状態で搬入されるテングサを一晩水に漬けた後に、2台の洗浄機で洗浄します。1日に500kg弱の乾燥テングサを処理しますので、かかりきりの専従作業者が必要です。
去年も紹介しましたが、濡れた草の入った重いコンテナを引きずり回す重労働です。
茅野は八ケ岳の麓ですが、全貌がここから直接見渡せないのは残念です。
今年は早めに赴任したので、テングサ作業に入る前段階の庭仕事の準備もやりました。田に稲わらをビッシリ敷き詰めて、ハセ掛けに使う杉の棒で台を作り、その上に板の台座を設置して寒天が乗ります。運搬車が通行するスペースにはトバイタといって板を何百枚も敷き詰めてロープで結んでいきました。秋にこさえ、春には撤去ですが、時間をかけて念入りに準備するものだなと思いました。
物にはいろいろ名前が付いていて、よく覚えてはいません。
それにしても、稲刈りの終わった田なのに轍に水がたまっているような場所が皆無であったのには驚きでした。このように降水量が少ない土地柄だから寒天もできるのでしょう。もちろん田じゃない畑跡地もありました。
10日前からテングサ煮込みがスタートしていますので、現在はもう庭へは出ず草作業に専念しております。
朝5時前には作業を始め、夕方4時前には終了します。お風呂に入って、給食センター支給の弁当を食べ、ゆっくりくつろいで9時には就寝します。飲み会も用事も集まりもないので、気分的には大変楽です。夕ご飯も早く、ご飯もしっかり出るため、お酒は全く飲んでおりません。
先日、近所のスーパー(デリシアといって昔の松電ストアだそうです)で赤ワインの1升瓶を買ってきました(1,800円)。5、6回に分けて飲んで空になったら帰り時でしょう。
何にせよ通勤がないのは、時間的にも燃料代からも助かりますね。
休日はありませんので、とにかく焦らず、暮らすように日々働いて過ごすという感じでしょうか。黙々と目の前の工程の中に没入しています。
夕方、近所の縄文博物館に行ってきましたので、縄文土器を紹介します。美しいですよね。ヘビ柄だそうです。
土偶もありました。表情が個性豊かですよね。土偶というのは壊れた状態でよく見つかるようですが、わざと壊したのかもしれないそうで、安産とかを祈って祭りとか儀式に使われていたんだそうですね。
土偶については機会があったらまた紹介します。
茅野といえば、八ケ岳登山と、大学1年の夏休みの蓼科グランドホテル滝の湯でのアルバイトの思い出が詰まった土地でした。ただ茅野市内には来ていないんですが。。
お出かけにはまだカーナビが必需品です。
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晩秋の「魚の番屋」探訪2018.11.30 Friday
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ちょうど一週間前になりますが、前からずっと気になってるいた岩手県野田村にある「魚の番屋」に行って来ました。
地元局IBC岩手放送の釣りの番組で紹介され知っていたのですが、ある漁師の方が長年木彫りの魚の創作をされていて、素晴らしい芸術作品であると報じられていました。そのラジオで入館チケットのプレゼントを募集していて、応募したところ当選したという次第です(もちろん入館料を払ってでも訪れたでしょう)。
11月も下旬となり、外の仕事も大体片付きました。冬の仕事が始まる前の束の間の休日です。
「番屋」の場所はHPで見ても実に分かりにくい場所で、実際迷いました。この展示館、割合最近にできたようで、車のナビには入っておらず、最近購入したスマホのグーグルマップを併用して進みましたが、ナビとスマホが交差点で正反対の指示を出したりして最後は苦笑しながらの運行です。
中での撮影は禁止だったので、その素晴らしい作品群を紹介することはできませんが、迫力ある彫琢の魚群を存分に堪能してきました。
その後は、ちょっと大回りになりましたが、一戸町に向かい、「御所野縄文公園」へ寄りました。にわか縄文ファンというわけでもないですが、9月最初に東京上野で見た「縄文展」があまりに素晴らしく、その時にあった「鼻曲がり土面」がここ岩手県の一戸の所蔵とのことで、子どもたちにも見せてやろうと決めていました。残念ながら展示はレプリカで、本物は上野の後にいまはフランスに行っているそうでした。そのことは前もってわかっていたのですが、この日しかもうないだろうと思い、番屋と合わせてドライブに行ってきました。
さて、写真は手元にないのですが、最後の秋仕事であるたらの木の伐採と搬送、そして束ねて小屋に収納する一連の作業を終えました。たらの木はこれから2か月間休眠し、そして芽吹き作業は2月からスタートする計画です。
現在は、去年と同様に長野県茅野市に出向いていて、寒天作りのために庭の準備作業を進めています。去年より10日早く来ていまして、その分終了も10日早めてたらの芽に繋げたいと思います。
今年はスマートフォンとともに赴任しているので、メールはすべて送受信できますし、お米の注文につきましては中学生の娘に梱包出荷作業をしてもらう段取りになっています。少しずつ農作業に関わるようになってくれて、頼もしく思っています。
にんにくについてはまずは在庫分を黒にんにくに回しますので、青果の方は販売を終了しましたが、黒にんにくは出荷対応させていただきます。お米と同様に変わらぬご利用をどうぞ宜しくお願い申し上げます。
寒天作り工程については、また折に触れお届けいたします。
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お盆りんどうが終わります〜1日のお盆休み2018.08.14 Tuesday
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全国的に猛暑となった2018年の夏。われわれにとっては年間で一番の山場であるりんどうのお盆出荷の時期となり、連日、残業出荷の日々が続きました。時に、関西で40度の時にこちらでは20度といった涼しいを通り過ぎたような日もありましたが、大体が28〜29度で数日31度がありました。
お盆出荷とは8/1〜8/10の10日間になりますが、7月下旬から高温少雨が続き、高温による開花抑制が予想されたので、当園では潅水を連日続けて、なんとか少しでも需要期に合わせて開花を促進させるとともに、高温による花の日焼け障害等の防御という意味で圃場の地温を潅水により下げられればという対策を続けました。もっとも日差しの強さは水によっては防げませんが。。
もともと一人での出荷というのは1日せいぜい10箱(2,000本)程度しかできませんが、その高温の影響でしょう、ダラダラと少しずつの開花という感じになって、一人作業でちょうど良いかという咲き具合が続きました。ただ、ダラダラ開花のために、結局毎日広範囲の同じ面積を歩いての採花となり、これまでのようにお盆出荷区画を3等分とかに分けて、3日間隔で収穫に入るというようにはいかず、毎日いっぱい歩いたロスが多かったお盆でした。
全国的に、ここよりももっと暑くなった地方でもりんどう産地はあると思いますが、高温による悪影響はなかったのでしょうか。35度になるような地域ではりんどうは栽培できないと思うのですが。。
まず現在はお盆の青が終わり(今日採って終了にします)、白の出荷を続けます。これからはお盆の反動で安値になります。が、もし市場での出荷量が大量とならなければ、そこそこの安値で推移してくれるのですが、今週の動向はどうでしょうか。。
さて、高温好天傾向は、にんにくの乾燥には大助かりでした。今年シルバーよりもっと遮光の強いダイオシートでハウスを覆ってみたことは、猛暑の夏として正解でした。外気が30度の時のハウス内は27度くらいでしたね。コンテナに入れているのは種にする分と未整理の出荷用にんにくです。根は全部切りました。現在入っている注文に応じるために、お盆りんどうと彼岸りんどうの出荷期の合間に皮むき作業を続けたいと思います。そろそろ乾燥も終了したと思います。
気持ち良い風も結構入ってきてくれて、扇風機はほとんど回しませんでした。
さて、お盆出荷に一区切りついた昨日、下の2人を連れて秋田の海へ出かけてきました。本荘マリーナ海水浴場です。海水浴場は8月15日までだし、これまではりんどうがあったり、また息子は部活の野球があって、結局お盆しか出かけられませんでした。
下の娘と久慈の海に出かけた7月下旬はたまたま涼しい傾向で、泳ぐにはちょっと寒い感じでした。もう一度暑い時に、ということで暑い折に海に来れてよかったです。もうすぐに涼しくなってしまいますから。。
1時頃に海水浴を終え、ちょっと遅い昼ご飯を食べた後、息子が道の駅で友達に買い物をしたいというので、急遽西目の道の駅へ向かいました。途中、午前中は姿を見せなかった鳥海山がその威容を表してくれました。
土産の傾向ですが、秋田では、まずナンバーワンが「秋田犬」のキーホルダー系やお菓子類でした。ダントツで、ほとんど秋田犬しかないような感じでしたね。
道の駅西目の近くで買ったババヘラアイス(200円)。
さて、午後は釣りの予定をしていまして、本当は海水浴をした本荘マリーナの堤防で釣る計画だったのですが、先に買い物に道の駅へということで(道の駅は早く閉まってしまいますので)、西目の方へ向かったことで、釣りも西目の漁港で行うことにしました。釣り餌を買った釣具店の情報では、マリーナよりも西目漁港が良いとの感じで、結果的に良かったかもしれません。
シロギスが釣れました。今日の昼に天ぷらになりました。
こちらはハゼ。子どもの頃広島の川で、3人で100匹、4人で100匹とバカ釣りしたものでしたが、何十年かぶりに出会いました。
こちらですが、何でしょうか。海タナゴ? 写真では大きく見えますが、10cmくらいの放流サイズです。。どことなく真鯛にも見えなくもないですが、目がちょっと違いますね。子どもの頃瀬戸内海では結構真鯛が釣れたものでしたが。
そんなわけで午後3時過ぎから6時まで釣って、久々の街場でもあり買い物を少しして、温泉(「ぱいんすぱ新山」〜料金も手頃で良い温泉です)に入って、8時になったので夕食も由利本荘で食べてから家路に着きました。到着は23時ちょうどでした。お盆出荷の疲れを引きずっての強行の旅でしたが、帰りの眠気は用意していたコーヒーだけでは抑えられず、コーラを買って乗り切りました。コーラは眠気覚ましに結構効くみたいです。
そういうわけでお盆休みも終わり、今日はまたりんどう採りです。早くお盆品種にケリをつけて、たまった別の作業にも着手したいところです。
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ハイデガーのこと2018.04.16 Monday
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ここ数日寒気が続いて寒いが続き、もっぱらたらの芽の作業に従事しつつ、まずは水稲籾蒔きまで進めることができました。先週も積雪があったり風が強かったりで、ビニール掛けしようにも、なかなか仕事をさせてくれませんでした。当園はプールに並べての平置き出芽になるので、やはり早めの播種を心がけています。いつ蒔いても、必ず寒気には当たるので、暖かくなるのをのんびり待ってからということはしませんね。慣行では種まき後、密閉した出芽器に入れて2日間で芽出しをさせる方法が取られ、カビ防止に農薬も使われるわけですが、無農薬の平置き法では出芽に7〜10日もかかり、日々の温度確保に一番気の抜けない期間になっています。
育苗培土は今年も「花巻酵素」製の土を使いました。花巻まで取りに行くのも慣習になっており、今年は子どもたちの要望でその際に北上市で「ジュマンジ」を観てきました。面白かったです。そしてアマゾンで旧作があることを知り(ロビン・ウィリアムズ主演)、後日パソコンで観ましたが、これも良かったですね。最近、急ぎの注文がしたくてアマゾンのプライムという会員になりましたが、特典として多くの映画等が無料で視聴できることを知り、結構活用しています。
ちなみに、個人的に「深夜食堂」にハマっています。。なぜでしょうね。全体の醸し出す雰囲気が良いんですね。1作目の映画を観て、いまはテレビ放送版(1話30分)を昼休みに見るのが楽しみになっています。
さて、あまり写したことがなかったですが、水稲プールはこのようにしています。5〜6cmの太さの垂木を2段に重ねて枠を作り、ブルーシートを新旧2枚重ねて敷き、その上に19mmパイプを並べます。苗箱1枚が2本のパイプの上に乗ります。横に6枚並べますが、中央に30cmくらいの歩けるスペースを作っています。向こうに20枚置けますが、余裕を持ち19枚にしていて、今年は全部で112枚蒔きました。ひとめ2反歩、いわてっこ2反5畝です。坪60株の設定で田植えしており、1反歩当たりで20枚ちょっとの枚数になり、かつ薄まきであることから、種や土の量は節約している勘定になります。
こういう寒冷地では分けつが少ないので、みんな厚まきにして密植にしますが、当園は薄まき、間隔広めの田植えを続けています。そもそも薄まきにしないと大きい苗になりませんし、大きい苗を1株あたり少ない本数で、かつ間隔を開けて田植えすることが、草対策も含めて有機栽培の基本だと思います。もちろん風通しを良くし、いもち病を防ぐことも狙いです。
パイプを下に敷く理由ですが、これにより、田植え直前の完全落水が容易で、また完全な均平が取れていなくて苗箱の高さがいつも不揃いになるものですが、低い苗箱のパイプの下に小石を詰めることで苗箱の高さを、なだらかに上に持ち上げ揃えることができます。
さて、先週は末娘の誕生日がありまして、蛯名鉄工製オーブン付きストーブで久々にスポンジケーキを焼きました。まだ雪もあり農繁期でないいまだからこそできることですね。薪ですが、通常の薪だけでなく、たらの芽で使った廃木も燃やしています。小さいので、生木でも燃えやすいです。処分にも困りませんね。
そして「バタークリーム」を作ります。以前にも書いていますが、昔は生クリームよりもバタークリームの方が市販ケーキでは主流だった気がします。いまはお店でも売っていなくて、作るのが一番です。卵の白身を撹拌器で撹拌し、それに砂糖と無塩のバター(うちは節約してケーキ用マーガリン)を混ぜて出来上がりです。クックパッドを見て作ります。バニラエッセンスを少量かけて、風味を出します。普通の生クリームならいつでも食べることができるので、特別な日の感がありますね。
さて、雪はあと1週間で消えるかという感じで、結局連休近くの頃となってしまうんですね。やっぱり。。11月19日に仙台へサーカスに出かけた日から根雪になっていて、そろそろまる5か月を経過します。こちらでは冬は長く、春は5,6月、夏は7,8月、秋が9,10月で11〜4月が冬という感じでしょうか。少なくとも暖房は完全に6か月は使用しますし、5月6月でも暖房の欲しくなる寒い雨の日はあります。「温暖化」など全然体感できないここ奥羽の里ですが、まあ焦らずに雪解けを待つしかなく、でもりんどう畑など、早く草取りがしたい! いましたい! というのが本音です(切り花りんどうの作業は県内の各地よりも50日遅れての作業開始になります。雑草が取り切れないことにご理解をいただいきたいです。。)。
そうした残雪期ですが、たらの芽の作業があるだけ、当園はまだ仕事に恵まれていることになりましょうか。駒木をすべて切り終えた現在では、収穫と出荷準備、および収穫して空いたスペースに次の駒木を置いていく作業になります。まだまだ素材の木は豊富で、サイトからのご注文にもお応えさせていただきます。連休中には終わりますので、これからは終盤ラストスパートといった時期です。
とはいえ、たらの芽だけでは時間に余裕はあって、子どもたち関連のお出かけも含め「いまのうちにできること」を探しつつ、過ごしております。
農作業と別にやるべきことといっても、何か別の作業対象に目を写して取り組もうということだけではなく、自分の生き方暮らし方の点検をしてみることも必要かと思います。こういう作業もやらないと、何の目的でどういう農業をやりたいのかも見えなくなってしまうかもしれません。夜には読書もしますが、そのうち農繁期になると疲れてやめてしまうことでしょう。いろんな意味で、「やるべきこと」を探し出して、それなりの形を示しておきたいものです。
大学時代の長野県で2か月滞在した報告をしましたが、松本で暮らした20歳の頃からハイデガーの哲学に不思議な魅力を感じていました。いわゆる「哲学史」に出てくるどんな哲学者とも違う異質な哲人です。1980年代当時、いわゆる「実存哲学」は勢いがなく、学科内の雰囲気としては、やはり「学」として論述できるものが志向されていたと思います。もっとも、ハイデガーはいわゆる実存哲学ではない気もするし、そもそも実存哲学自体が正しく捉えれていなくてしかも軽視されていた時代ではなかったかと思います。
そういう背景を身に感じながら、ハイデガーに感じた魅力に匹敵するインスピレーションを受けたのが、大学3年生の後半になって読んだヘーゲル「精神現象学の」序文や緒論でした。いわゆる学説としてのヘーゲルの体系内容そのものよりも、認識や経験の構造について生き生きとした言葉で書き進められた前置きの文章(これだけでも80ページくらいにはなるのですが)に惹かれ、4年生になり卒論の対象に選びました。ハイデガーでは書けそうにないということもありましたが。。その卒論の中でもハイデガーによる「ヘーゲルの "経験" 概念」という論文は重要な文献になりました。そもそも「経験」Erfahrungとは何か、のハイデガーの省察は深いです。
学者ではなく農家として暮らしているいま、ヘーゲルよりも、ハイデガーの方が気にかかります。「自分が自分であると感じ自覚していることの不思議感」とか、「世界とはわからないことだらけで、根本はどんな構造になっていると考えたら良いのか」、あるいは「日常、具体的な物事に関わりつつ生きているが、個々それぞれの具体的な物事の背景にある何かとは何か」。。。そういった直視しようとしても対象化できず、その都度背景に退きながら、もやもやと「それは何か」と問うてしまうもの。。ハイデガーのいう「存在」とはそういう感じなのではないかと思っています。対象としてフォーカスし認識がなされないものは語り得ないし、直視もされず、それは思考・思索によってしか接することはできないと思います。思考といっても近代の学問が求めたような主観性とか、カテゴリーとかの認識の仕組みというものとは違い、いわば「悟り」のような思考になる、そのような意味では直覚とでもいうような仕方で体得すべき本性かもしれません。
そういうものなどない、仮にあっても意味がない、と言ってしまえばそれまでで、不要な考えとして一蹴されるものでもありそうですが。。
そんな感覚にずっと囚われていた気がしますので、ハイデガーに親近感を覚え、私の出発点というのはいつもそこです。そして都会生活の中では、意識の向かう対象や情報・記号といったものがが多くて、個々の存在者に埋没してしまいそうになります。一方、山の中とか、こういう農的暮らしの中では「世界」や「自然」に包まれていて、もくもくと一人作業をしている間、ずっと頭の中にあった「謎」、「世界とか私といった現象」「対象化して捉えようとすると背景に退いてしまう何ものか」を無言で問い続けることができる気がします。農村へ惹かれ移住した動機として、ハイデガーのいわゆる「故郷喪失性」"Heimatlosigkeit"についてのイメージが大きかったと思います。もっとも彼の言う「故郷」は「ふるさと」のような故郷では全然ないのですが。故郷は存在する対象ではなく、対象の地盤でわれわれにそっと何かを語りかけるものと思います。直視はできませんね。
農家として、商品化とか、消費者とのつながり、や伝統的な農村的文化の共有とか、大事な取り組むべきことは多いですから、こんな抽象的なことに囚われていても、生産者からも消費者からも理解を得られることもないでしょう。先達に比べ、当園ではこれといって具体的に特別な、人のやっていないことを何かできているわけではありませんし、現実の農家としてヘーゲルやハイデガーに関心を向けている余裕はないといえばその通りでしょう。。
いずれ、上に述べた個人的関心事や、ハイデガーから感じ取られる「世界があるというのは一体どういうことなのか」を語ろうとするそのことは、すぐに社会や人々と共有できるツールのようなものではありません。ハイデガーのいう「技術とは何か」といったテーマはそれだけ取り出せば、現代社会に対し何かメッセージを伝えることはできるかもしれません。しかしハイデガーの真意は現代社会への批判といったことではなくて、やはり視線を向ける都度、背景へ背景へと隠されてしまう「何者か」に向いている気がします。晩年には「最後の神」とかいった表現もあったそうです。だからそれは具体的内容を持ち説明される「学説」なのでは決してなく、「道」であるとか、「指標」であるとか、そういう語られ方もするでしょうし、ヴィトゲンシュタインのような感性を持った人にとっては、語られないもの、示されるもの(SagenではなくZeigenされるもの)として感じ取られているものでしょうか。
現実の社会で暮らしていくことの不安(経済不安・戦争の不安、等々の存在者の不安)といった切実な関心事に加えて、この「捉えがたい何か」がわからないでいることの不安(存在不安)がいつも静かに押し寄せます。いわゆる哲学の目標とは、単純に幸福とか救いを見出すということではないと思います。この存在不安を解消したいということが動機になり、この語り得ない「それ」は何だ、と対象化し得ない背景を言い当てようとする試みではないでしょうか。コツコツと「個々の存在するもの」(作物や土やいろんな資材など)に関わりつつも(存在者への頽落)、背景・土台の領域(対象化できる存在者と並ぶような別の1つの存在するものではなく)について、漠然とではあれ追い求めて暮らしていくこと、そんな風でありたいと思います。ハイデガーの文章は難解ですが、字づらに迷わされず、言わんとすることを想像することが大切ですね。無数に出ている解説書に手を出すよりも、ハイデガー自身の文章に翻訳でも良いので接して、「言わんとすること」を想像することが大切に思います。
平凡社の「世界の思想家」というシリーズが昔からあり、いまは絶版と思いますが、これは思想家そのものの全著作から選ばれた重要文章(と編者が感じたもの)を寄せ集めたアンソロジーです。ハイデガーの巻もあり、個々の著作に挑むよりも、全体の概観をするには格好の1冊と思い、これもまたアマゾンで入手しました。翻訳でも良いでしょう。思想家の生の文章に触れた方が良いと思います。ただこの平凡社の本は発行が古く、前期の主著『存在と時間』に焦点が当てられていて、まだハイデガーの生涯を通じた全体像が見えていなかった時期のアンソロジーです。時代も進んで、全貌がいまは公刊されています。この時代に新たなアンソロジーでハイデガーの美文に触れたいですね。1冊1冊に深く立ち入っている余裕はなかなかないので、できればコンパクトな形で出版されないでしょうか。。。
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4年間を過ごした松本の旅〜寒天工場エピソード32018.03.03 Saturday
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あと何日だと待った、寒天工場の任期満了。ついにその日が来ました。日本海経由で帰路に着くわけだし、もう帰りは松本に寄ることを決めていたので、終了後工場で最後に寝て翌朝の2月16日、茅野を発ち20号でまっすぐ松本へ向かいました。途中諏訪湖を見ました。久々の寒い冬で御神渡りができたと話題でしたが、ちょっと溶けていて、残念。。
松本市内に入り、詳しくない駅より南の方では一方通行とかでやや迷ったですが、下宿のあった岡田地区に向かい、それから歩くと30分くらいになるでしょうか、当時よく訪れた小径を車で辿ってみました。
しばらく進むと安曇野と北アルプスが一望できるところに着きます。よく知られている「アルプス公園」と同じようなロケーションです。一人で散歩に来たこともあったし、友だちや先生といろんな議論をしながら訪れもしました。大袈裟にいうならば「思索の山道」でした。ハイデガー流にいうと「森の杣道」という感じでしょうか。。舗装路でしたが。。いまの大学生も基本はそうかと思いますが、私たちも下宿に集まって、お好み焼き(広島風)を作って食べたり、そしていろんな議論(高尚な話から血液型の話などまで)を朝までやったものでした。近所で鶏の声が響きました。
そういう過ぎ去った20歳頃の時期を振り返るような旅にもなったかもしれません。この松本の地で現在まで続く意識とか世界観とかが築かれたのですから、やはり大事にしておきたい記憶です。
さてエピソード1で霧ヶ峰から見た北アルプスを掲載しましたが、上のこの写真が松本から見える北アルプスです。写真の辺りは700mを超えていると思いますが、真実の高みには達していませんね。メインは槍穂でなく常念岳が主峰に見えています。左が蝶が岳、右は大天井岳(おてんしょうだけ)です。
下宿にはお風呂がなかったので、歩いて浅間温泉に通っていました。その途中に女鳥羽川に架かる橋を渡ります。冬などは帰り道では髪の毛が凍っていましたね。
この橋の真ん中で、こうして上流を見下ろしながら夏にパナップを食べたことをふと思いましました。美しい時代の記憶そのものです。当時聞いた話で、かつて学生運動の頃にその風は信州大学にも押し寄せていて、教授陣も学生に追われて逃げたんだそうですが、女鳥羽川を渡って逃げたか、手前で踏みとどまったか、で、後々いろいろ人物評価が違ったとか。。。この光景で思いましました。橋を渡って逃げたか、川をジャブジャブ逃げたかはわかりませんでしたね。
大学に通う途中のちょっとした公園も健在です。この青いベンチもそのままではないでしょうが、残っていました。大学からの帰り道にこのベンチに座って岩波文庫の「イーリアス」を読んだ記憶が蘇りました。「イーリアス」の中身はあまり覚えていないんですが。。静かな佇まいが思索的です。大学1年生。知識への欲求は大きかったですね。現在では、欲求は実際的な「情報」を求めることで止まってしまいがちですが。。
写真は撮りませんでしたが、信州大学付近にも立ち寄ってみました。大学の北側に、いまでは小澤/サイトウキネンで超有名なキッセイ文化ホールがありました(私の時はありません)。聴きに来たい、が、ここまでコンサートに来る予定というのはちょっと立てられないかも。。
余談ですが、できることなら、子どもたちと燕岳に登りたいと思いました。松本に来て初めて登った北アルプスで、頂上の奇岩は独特だし、盟主槍ヶ岳を好位置で望むことができます。最低2泊3日の行程で、無雪期になるのでちょっときついですかね。
松本城にも訪れてみました。以下は観光情報です。下宿探しの時に家族で天守閣に入った記憶がうっすらとあります。学生時代は通行したことはあっても天守閣には上がらなかったように思います。通行止の看板が見えるこの赤い橋ですが、そういえば「ザ・ベストテン」という番組があって、そこで松田聖子(確か同年齢)が全国中継でこの赤い橋の上で歌ったことがありました。確か自転車で見に行ったような記憶が。。すごい人だかりだったような。
松本城から大きい通りを駅方面へ向かう途中にある古本屋さんの「青翰堂」。グーグルマップでこの辺を検索したことがあり、健在なのはわかっていました。古本を買っていきました。
「縄手通り」もリニューアルされた感じで残ってました。ただ入口の角に建っていた大きなビルの本屋さんはなくなっていました。ここの花屋さん(左手前の店でしたか)で「エンゼルランプ」という鉢花を買って、それを眺めながら下宿でチェンバロの「フランス組曲」(バッハ)を聴いた記憶が蘇ります。
また、この通りに当時は小さい映画館があって(本当に小さいです)、リバイバルのみの上映をしていました。「ラ・ブーム」を観た記憶が。。でも映画館は見つけられませんでした。
記憶を辿りつつ、一度だけ行ったことがある喫茶店「シンフォニア」を探ししばらく歩いて、ついに発見! 入ってみました。
学生時代に人文学部の友人と入ってみると、授業を受けていたドイツ語の先生がいて、確かメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」か何かが流れていたような。。いまはご主人も高齢で耳が良くなくて、当時のレコード類はほとんど人にあげてしまったそうです。テレビで男子フィギアの予選をやっていました。
寒天工場の2か月間、全く音楽を聴くことができませんでした。それでブルックナーの4番をCDで見つけ、かけてもらいました。2か月ぶりのブルックナーです。
山の写真がかかっていて、また寒天工場本編の記事で触れた槍ヶ岳山荘の穂刈氏の本もありました。オーナーの穂刈家4代の番組(長野県内のみの放送)の話も交わし、新刊の出版パーティーに出席したのだと伺いました。山が好きなご夫婦のようで、いっとき山の話をして、店を出ました。もう再び訪れることはない気がします。。
その夜は松本駅前に泊まり、翌日は山形での研修会に向かいました。
ちなみに、昼ごはんは「源太」の山賊焼き定食を食べて来ました。夜は浅間温泉の「萬山園」に行き萬山麺を食べる計画でしたが、午前に店の前を通った時に「しばらく休みます」の紙が貼ってあり、断念。駅前で第2候補の「スパゲティのヤマナミ」を探しましたが、かなり本気で歩いて探したのですが見つかりませんでした。家に戻って検索してみると、駅前の喫茶「アベ」の近くに引っ越していたようでした。スマホがあれば解決したでしょうに。。学生たちによく知られていた「かのう」(1度だけ入りました)も頭をよぎったのですが、記憶がぼんやりとしすぎ、これも断念。。
ちなみに、駅前の「アベ」も何度か訪れていて、「モカパフェ」と「ブルーベリーパフェ」がゴージャスで人気でした。モカパフェのみ、入口のショーケースに残っていました。680円になっていました(当時は450円くらいだったか)。
翌朝はホテルの朝食バイキングでした。かなり良かったですね。松本駅でそばを食べようかと思っていましたが、見つかりませんでした。飯田屋ホテルのそばコーナーも立ち寄ってみましたが、朝の開店時間が遅く、断念。結局この2か月そばは1食も食べませんでした(72日間の連続弁当生活でしたので)。かつてセルヴァン?とかいった駅に並ぶショッピング街も一変していましたね。前より賑わいに欠けている雰囲気がしました。駅前のイトーヨーカドーもありませんでした(井上はありました)。
そんなわけで、翌日17日は研修会ということでお昼過ぎに山形県小国町に到着し、「食べる通信」高橋博之さんの公演を聞きました。結構な雪で、建物の入り口を見つけるのに苦労しました。小国も西和賀以上に豪雪地帯として知られたところ。ここで久しぶりに覚えた顔と再会です。遅く入って最前列に誘導され、そこから写真を撮ってみたので大きく写っていますが、有名人なので許してもらえるでしょう。高橋氏の農業や農家に対する思いは共感するところが多いです。経済的な面から一歩踏み込んだ内面的な充足感とか、あるいは死生観につながるような面も「農」の根底にあるわけですが、こうした抽象的で伝えづらい領域もわかりやすい言葉で表現してくれる人だなと思っています。値段と機能というモノの面だけでない奥深いつながりを生産者(漁師とかも含みます)と消費者の間に構築していくことが、彼のライフワークになります。
関心がおありの方は「食べる通信」で検索してみてください。
夜は懇親会。。テーブルについて酒を飲む懇親会というのも2か月以上ぶりのことでした。ちなみに、寒天工場では住み込み部屋を閉鎖する時に盛大に打ち上げ会をやり、その後は近隣の通勤者のみで終了まで続けるそうです。
小国の2日目です。小国町にある基督教独立学園高等学校を訪れました(内村鑑三が設立)。日曜日ですので、朝の礼拝に参加して来ました。そのあとに、教頭先生から学校の歴史や方針などについて話していただきました。
学生は携帯も持たず、テレビも見ない生活だそうです。キリスト教徒であることは必須ではないそうですが、キリスト教や学校の方針に理解を持つことが前提になり、親も一緒に何度も面接をして入学を決めるそうです。「戦う」ことにつながるという考え方からスポーツ活動は取り入れず、部活では野菜や家畜の世話をする活動をするようです。もちろん食事に使われます。
基本的に試験というものはないそうで、人間教育が基本になりますので、進学を目指す方向きではないかもしれません。しかし卒業生の話を聞いてみると、ここでの3年間の記憶はやはり根強くずっと残り続けていると。いま自分の高校時代を振り返って、ここまで強烈に自分の一部になっているかと聞かれれば、そうではない。独立学園では、勉学という範疇を超えて一生の生きていく頑丈な基礎が修得されているのだと感じました。
1学年が25人という定員で全寮制。進学校ではないのだけれど、大学の方から、このような教育を授かった学生を欲しいと逆に言われるそうで、たった25人なんですけどね、というような話もあったりして、時代のかなり先端にいる場所だと私には感じられました。
最後にランチを挟んで参加者と懇談。西和賀の顔も見えます。考えさせられる研修会を終え、3時前に出発し、ここからは高速もなく、13号から秋田県経由で午後9時頃に家に到着しました。2か月半ぶりでした。
さて、既に日常が戻っていますが、やっぱり疲れているのだと思います。朝4時半には起きれないし、部屋でゆっくり検索や事務(申告やネット販売の事務等)をし、備忘を兼ねてのブログ記事の書き起こしなどを進めながら、タラノメの設備改良や駒木の切断と伏せ込みの作業に取り組んでいます。
にんにくも在庫わずかとなってきました。青果品を取り崩して黒にんにくへと仕込んでいく作業も残ります。
雪は非常に多く、本当に春が来るのか? 不安な気持ちの昨今です。
山ぶどうを這わせたパイプが潰されてしまって、この片づけも雪解け後の余計な作業に加わりました。ただかえって露地としてジャガイモ等のスペースができるので、手のかけられなかった山ぶどうを断念する踏ん切りがつきました。
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カナディアンファームを訪問〜寒天工場エピソード22018.03.03 Saturday
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12月5日の夕方に寒天工場に着いて、翌6日から仕事が始まりました。その6日の早朝、1時間だけ「庭」の仕事をやりました。2人で組んで寒天の載った積み重ねてある板を1枚ずつ持ち上げて並べ広げていく仕事。その後、朝食後より私は「水舎」でテングサを洗浄する仕事になったので、後にも先にも「庭仕事」はこの1時間だけでした。
その時に板を広げる仕事を一緒にやったのが、吉田さんです。吉田さんは「カナディアンファーム」のオーナーであるハセヤンこと長谷川豊氏の生き方やファームの取り組みに触れて共感を持ち、他県から茅野市(あるいは原村?)に移住された方です。早朝5時前から8時まで寒天の仕事をし、それからファームに行って夕方まで作業(修行)をするという生活をされていました。
自分の手で建物を作り、食材を作り、自給で生きていく王国を作る。そんな希望を持って京都生まれのハセヤン氏は高校生の頃に八ヶ岳山麓の「酋長」と呼ばれる農家に弟子入りしたことがきっかけで、消防士になったり、アメリカへ渡り修行の旅を続けたりして、最終的この八ヶ岳の麓に農場とお店を開きました。
その建物は極めて独創的で、オーナーのハセヤンが廃材や自分で切った木(カラマツが多いようです)を使って吉田さんたちお仲間と一緒に作ったものです。余談ですが、ハセヤンは「テレビチャンピオン」という番組で「廃材を使った建物作り」のチャンピオンになったとか。
その独創的な構築物を写真に撮りたいと、ダッシュでテングサの仕事を少しでも早く終わらせて、日のあるうちに訪れようと頑張り駆け付けました。独特の曲線が良いですね。。写真はフォトショップで少し明るくしましてありますが。
こうした壁のない建物はお客さんが食べるスペースなんだそうです(冬は閉鎖ですが)。
このような窯でパンを焼いています(ピザではないそうです)。カナディアンということで出てくる料理はサーモンとかお肉が中心になります。薪も廃材が取り入れられていますね。
最近作ったというツリーハウスです。訪れた子どもたちの遊び場所としての意味合いだとか。ハセヤンオーナーは子どもたちに自然で生きていく技や、自給の知恵などを教えたいという気持ちを強く持った方のようでした。
こちらの部屋で寒天の同僚吉田さんやその友人のスタッフさん、そしてハセヤンとも話をして工場に戻って来ました。冬の時期でもこちらで料理を食べることはできますので、HPで検索して訪れてみてください。そしてここで働きながら、何かを得たいと思っている方も、訪れてみていただきたいと思います。
ハセヤンについては、下記の本に10ページほど紹介されていて、私はここにある蔵書を借りて読みました。職業としての農業経営という視点での一般の農家の方には関心は薄いかと思いますが、私はいろいろと考えさせられました。
自分は大学時代から内面ばかりを見て生きて来たタイプです。関心事は自己意識とか、認識の背景にあるものとか、物自体とはどういうことか、とか。。ハセヤンや吉田さんは、もっと外に向かって行動しています(世界を旅する寒天釜係の坂口さんも同類ですね)。建物を建てるだけではなく、子どもたちを募って体験学習を行い無償で技を教える。震災の時は即座に救援に向かい、そのような状況でどうすれば良いか体で判断して手を差し伸べる。。
気持ちがあってもすぐにそれを表すということは、そうできることではありませんし、むしろ困難なことです。農家であれば、いまこの目の前の農作業を捨てて被災地へ行けるか、とまず自問自答するでしょう。
自分がもし、信州大学生の時から再スタートするとしたら、ひょっとしたら、こういう現実社会へ積極的に飛び込んで自らの精神や肉体を「意識」や書籍からではなくて、現実社会から行動して学び、そして自分の王国を具体的に表現したい、という選択肢を持ったかもしれません(もっとも当時の自分のままに戻るなら、何度やっても同じルートを辿るのかもしれませんが)。
もっとも、それはいまからでも遅くはないし、農家として鍛えられ、また寒天工場で鍛えられ、実際、社会とも無縁ではありませんし、子どもに何を伝えるべきか具体的にいつも考えます。いまからでも自分なりの王国は築けるでしょうか。
2月16日の朝、吉田さんが吉田さんの王国を実現できますようにと願って、握手して別れました。
冷燻サーモンを土産に買いました。ハセヤンや吉田さんの描く夢を自分になりに解釈しつつ、思いを馳せながら晩酌にいただきました。生の感じが濃いワイルドなサーモン料理でした。焼酎にもよく合う美味しかったです(子どもには生臭い感じと敬遠されましたが。。)
寒天工場のすぐ近くにある諏訪中央病院院長の鎌田氏が書いた本です。確か150ページからハセヤンが取り上げられていました。
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